お伝えしたい事・お寺の新聞

行事などは、お寺の新聞「みのり」に掲載されています。是非ご一読下さい。過去一年分を掲載してあります。ここではいままで「みのり」の中から、また他の中から特にお伝えしたい事を新しい順に掲載します。

  みとり (”みのり”令和6年新年号に掲載)
 未明に、枕元に置いてあった電話が鳴った。「コーヒーとジュースを買ってすぐにきて」という妻の電話であった。お父さんの好きだったものを思い出しながら、コンビニで選んだ。脈拍はもう四十位までに落ちていて、39℃の熱も何日か続いていた。口を開けて呼吸をするので、舌がガビガビになり、ゼリー状の薬を塗ると少し良くなるようだった。むくんだ手を、皮膚が傷つかないように何度も血流に沿ってさすった。気のせいか、しばらくするとむくみが少し引いたような気がしてきた。多分こうなって欲しいという願望だからかもしれない。
 妻が「お父さんバナナだよ」といいながら口腔(こうくう)ケア用のスポンジに、先ほど買ってきたバナナ・スムージーを湿らせ、舌のまわりにつけた。途端に顔がにっこりとした。ひと月以上味わっていない食べ物の味覚である。本当に喜んでいるのだと実感した。誤嚥性(ごえんせい)があるので、この程度しかできなかった。一時間近くたってから、今度は同じようにコーヒーをあげた。スタバのカフェラテである。満足な顔は、言うまでもないが少しずつ呼吸が弱くなってきている感じがした。突然無呼吸となり、息を二回程大きく吸い込んだ。看護士さんを呼ぶともう息はしていないとのこと。しかし頸動脈(けいどうみゃく)からは暫(しばら)く反応があり、とても力強い体をしているのだとつくづく感じた。目覚まし時計を見ると午前七時十分であった。
 突然日蓮聖人の言葉が浮かんだ。
【日蓮は幼少の時から仏法を学習してきたが、よくよく思うのに人の寿命は無常であって、吐く息は、吸いこむ息を待つ間もないくらいであり、風の吹く前の露のようなもので、いつ散ってしまうかわからないものである。賢い人も、そうでない人も、老人も若い人も、すべていつ死を迎えるか定めのないことである・・・・・・・・】
 一、二週間前に「ヒューマニエンス」というテレビ番組の中で、人の死に対する特集があった。85歳以上の人の死因はほとんどが老衰である。肺炎とかガンとかの病名がついても老化により抗体が働かなくなるだけだということらしい。それと死の瞬間(脳が低酸素状態が続くと)ドーパミン(脳内麻薬)が多量に分泌され不安・痛み等から解放されるとのこと。これだけでも、自分も含め「死」に対しての漠(ばく)然(ぜん)とした不安から距離を置くことができた。
 北朝鮮が人工衛星を打ち上げている時代でも、私たちの寿命は、はっきりとさせることができない。「あと何時間何分頃」と言い切ることができないのが命だ。だからその瞬間に立ち会うことはほとんどが不可能なのだが、それが施設の計らいでできた。ここに移る前は、肺炎で入院していたため、食事も取ることができず、点滴であった。酸素も必要とし、尿も管から行っていた。痰(たん)が絡(から)み、吸引器(きゅういんき)で一時間おきに吸引を行わなければならなかった。入院時に面会日を決めていたので(たまたまキャンセルがあり、2週間程で面会ができた)五分程の面会ができた。次の予約ができるのは2ヶ月先になるとのこと。これを聞いた妻は、入院時に、手当の見込みがない時には自宅に引き取るとはっきり言ってあったので、「手が施しようがなければ、自宅に連れて帰ります」といい、次の抗生剤をするので、1週間程待って欲しいと言われ、自宅ではできないことだと割り切り、受け入れた。その時に医師の計らいで面会ができ、父は「早く家に帰りたい」と言い、こちらをじっと見ていた。手には「抜管防止手袋(ばっかんぼうしてぶくろ)」をつけ、カーテンで仕切られたベッドを見ると、早くここから出さなければと思いつつ、24時間看護をすることができるのか不安であった。
ケアーマネージャー(ケアマネ)さんと相談すると、昨年から山梨に「医療型サービス付き高齢者住宅」ができたけれど、難病か末期ガンの人しか受け入れてもらえないとのこと。父はたまたまその難病の一つにかかっており、異例の早さで受け入れ準備が整った。
 退院することは寿命を縮める事になるかと思う反面、家族ともひと月に5分程度の面会しかできず、誰とも話ができず、生きている意味を改めて考えさせられた。新しい施設では一日一時間(状況により泊まり込みも可能)の面会ができ、面会時間だけを計算すると、病院の一年分が、新しい施設の一日分ということになる。長く生きてもらえると思っていたから、ケアマネさんの薦(すす)めで点滴スタンドもリースではなく通販で購入した。
 その施設はすぐ近くの藤(田(とうだ)にあり、車で3~5分程度の距離である。退院の日に介護タクシーで点滴と酸素吸入を受けながらの移動となったが、施設に着くと新しい病院かと思い、本人は家に帰れると思っていたので落ち着かない様子であった。
 施設の配慮もあり、結局その日は妻は、泊まることとした。そして次の日は安心したせいか一日寝ていたようだった。慣れた父は、脚をベッドの端から降ろし、起き上がろうとしたりしたが、柵(さく)でベッドを囲(かこ)うことは拘(こう)束(そく)になるのでできなく、ベッドと同じ高さに布団を置き、起き上がるとセンサーが反応することとした。入居予定日の前日は二階の部屋であったが、一階の部屋がその日に開き、看護(かんご)・介護(かいごご)の詰め所の前の部屋に入ることができた。ここはこの地区の看護・介護のセンターにもなっており、日中は大勢の人が詰めていた。職員の配慮もあり、寝たきりはかわいそうだからと車椅子でこの詰め所にいることもあった。
 まだ父が熱が出る前に、妻と長い会話があった。20分位顔をじっと見て「何も欲しいものはないけど、おまえを待って行きたい」とポツリといい、またじっと顔を見た。妻は「じゃ、一緒に行こうか」というと「でもそれはできない。後片付けをしてもらわないと困るから」「優しい娘を持って良かったよ。ありがとう」このような会話が何時間もかけゆっくり行われた。
 その後は発熱が続き、ゆっくりと会話することができず、頷(うなず)くことが精一杯であった。医師は大里(おおさと)から早朝深夜に限らず、休日の日にも往診に来て下さり、手当てをしていただいた。昔、原爆の被害について読んだ本には、抗体(白血球の減少など)の機能が低下すると、普段は無害な菌が知られていない病気を引き起こし、その対応ができないとあった。老化もそれと同じく抗体の減少がおこり、栄養も次第に受け付けなくなる。
 このような中でも施設では、一日一回は必ずお尻を洗ってくれ、一日三回は口腔ケアをし父を清潔に保ってくれた。見回りの時間(24時間体制)には必ず見てくれたが、ドアを少し開けておいて、その前を通るたびに気をつけて下さったようだ。必要とあればすぐに痰(たん)の吸引をし、その他の処置をしてくれた。妻は朝、昼と行き、私は夜は一緒に行った。
 自宅では、点滴、酸素吸入、痰の吸引など24時間見てあげることができなかったと思うが、この施設で本当に良かったと思う。
 檀家さんの中には、最後子供の腕の中で逝(い)った人もおり、それと同じようなお別れができればと思っていた。この施設、職員さんのおかげで「悔いのないみとり」ができたことを有り難く思う。最後に施設の皆様、関係各位に、深く深く感謝申し上げます。

   スイッチ(選択)
 私たちは日常いろいろなところで、無意識にスイッチを使っている。一番多いのは明かりのスイッチであろうか。真っ暗な中でのそれは、目の前の風景を一変してしまう。冒険映画の中では、たいまつに火を付けると蛇やら虫たちがいて、困った状態になる。
 心の世界では、少しものが見えると、それを必要以上に大きく感じてしまったりして、大きな悩み(苦)となる。自分が欲しいものが手に入らないとなると、それがなければいたたまれなくなったりもする。目の前を大きな壁が立ちはだかり回り道をする時、上から見えれば右側は壁がすぐに終り進むべき道だと分かるが、壁がずっと続く左側を行く場合もある。その時に戻るべきか、このまま進むべきか選択(スイッチ)する。
 「観(かん)普(ふ)賢(げん)経(きょう)」の中に
『衆(しゅう)罪(ざい)如(にょ)霜(そう)露(ろ) 慧(え)日(にち)能(のう)消(しょう)除(じょ)』
(衆(しゅう)罪(ざい)は霜(そう)露(ろ)の如(ごと)し 慧(え)日(にち)能(よ)く消(しょう)除(じょ)す)
とあります。
 私たちの罪(恐れ・苦しみ・欲望)は露や霜のようものであって、実に限りなくある。その人間の罪をただ除こうと思っても、それは箒(ほうき)をもって木や草の露(つゆ)霜(じも)を掃(はら)おうとするようなもので、掃(はら)っても掃(はら)っても除き尽くされるものではない。しかし太陽が空に出て、太陽の光に照らされてそこらが暖かくなれば、露や霜は自然に皆消えてしまう。それと同じことで、智慧が日の光のように、輝いてくれば、罪は自ら除かれる。『慧(え)日(にち)能(よ)く消(しょう)除(じょ)す』で、自分の智慧が明らかになって、全ての道理が本当に分かれば、その智慧の光を持って煩(ぼん)悩(のう)を滅するから、罪などは皆消えてしまう。
 【法(ほ)華(け)経(きょう)大(だい)講(こう)座(ざ) 小林一郎著より】

 「中島みゆき」さんが、久しぶりに新しいアルバムを発表しその最後にあとがきを載せていました。
『   あとがき
 「世界が違って見える日」
心しだいで世界が全く違うものに
見えるはずだなんて、
そんなのは理想にすぎないよと
片付けてしまうのが、
人の常というものかもしれません。
たかが一人、どう思ってみたところで世界そのものは何も変わらず、
そこにあるじゃないかと言われれば
そうかもねと頷いてしまいそうです。
でも、
実際そんな瞬間に出逢うことって、
ありませんか?
思いがけない、
ほんの小さなきっかけで、
世界全部が
180度ちがうものに見えて驚く、
そういう瞬間。
時には世界が180度
絶望方向へ見えてしまうような
出来事もあるけれど。
それでも、きっと次の瞬間には、
世界が180度希望方向へ
見えてくるような出来事が、
あなたにもありますように。
180度が難しくても、
90度でも、10度でも。
          中島みゆき 』

   寒行成満(二十五年間)
 今日の新聞に「藤井新棋王 最年少六冠」と載っていました。羽生九段と名勝負を繰り広げた谷川浩司17世名人が
「才能というのはきらきらと輝くものでなく、苦にならずその道を毎日続けられること。」と、藤井新棋王に対して語っていました。
 寒行も「苦」を感じることもなく成満でき、おかげさまで得るものも非常に多かった気がします。「苦」と感じていればただただ「ホットした」だけだった気がして、皆様の浄財や時間を、無駄に浪費しただけだった気がします。
 これが先ほど載せた「スイッチ」です。職場でも人間関係でも生きがいでも、自分自身は全く変わらないけれど「スイッチ」一つで違う世界が見えます。これが「寒行成満」の結果です。
 寒行始めて七年目の時に、よく吠える犬に対して
『考えてみますと寒い冬空に、黒い衣をつけ、団(う)扇(ちわ)太(たい)鼓(こ)をならしながら何か叫んでいる人をみて、犬が警戒しないわけがないなと思いながらも「お題目は尊いんだ。なぜこの良さがわからないんだ」と、一人考えていました。
 そんなある日、自分の思い上がりに気が付きました。吠えるというのは聞いていてくれるんだと思ったからです。
 その後、犬たちの前にも礼(らい)拝(はい)するようになりました。
 ここまで七年かかりました。』

    寒 行
 (折りに触れ、寒行のことは載せましたので、重複する内容になるかと思います)
 私が實成寺に入ったのは、平成10年3月13日でした。翌年の正月5日に、知り合いのお上人がお経廻りの途中に訪ねてきて近況報告やらの最後に「寒行をやった方がいいよ。明日からちょうど小寒だから。」と言って帰りました。このことがきっかけでした。
 とりあえず10年成満と定め始めましたが、令和五年で25年になります。 唱題行脚(しょうだいあんぎゃ)自体は修行時代も含め、よく行っていました。役員さん達に年末に行っていただいてるのが、「歳末助け合い唱題行脚」で、募金活動をし「年の瀬にきて困っている人を助ける」という目的があります。寒行は「修行」を主目的に、寒い時期に行う「唱題行脚」です。
 私自身「寒行」をするとは思いませんでした。まして昨日の昼言われたからといって、次の日の夕方にするとはゆめゆめ思いませんでした。
 小寒から節分の前の日までの四週間(始めた年の小寒が1月6日)夕方6時、期間はとりあえず10年間と定めました。
 身支度を調(ととの)え、午後6時00分に開始です。本堂の前で、お題目三唱し、団扇太鼓(うちわたいこ)をたたきながらの行脚(あんぎゃ)です。正直「恥ずかしい」という思いがしました。静かな町中で、大きな音の団扇太鼓をならし、さも「修行をしているんだ」ということを鼓舞するものだと。 不思議なことに、ご本尊の前に向き合った時からそういったものはなくなり唱題行脚が始まりました。困ったことに、事前の下調べをしていていなかったために、どの道を回れば良いのか分からずに、右往左往したり、行き止まりにあったりもしました。当時はLED照明もなく、まもなく新環状線工事も始まり、工事中の道を横切ったこともありました。
 寒行=托鉢(たくはつ)という思いがなく、頭陀袋(ずだぶくろ)(頭陀行を行う僧が,僧具・経巻・お布施などを入れて首にかける袋)を用意していきませんでしたので、もらったお布施を袂(たもと)に入れました。なくしたら大変失礼に当たると共に、その人の功徳をなくすことになるので気がきではなかったことを覚えています。今では手袋をし寒行をしていますが、お布施は必ず素手で扱い、頭陀袋に確実に納めたか確認します。また、不慣れな頃は暗い道で渡されるお布施が誰のものか分からなかったこともありました。
 節分前に「お札」と「福豆(節分用豆)」を配りますが、早めに本堂にお供えし、できうる限りお経が上がるように配慮しています。
 40代の頃は約5㎞をⅠ時間かからずに回りました。風の強い日は編み笠や太鼓が飛ばされそうになったり、上り坂の向かい風では、前になかなか進めなかったりしました。
 太鼓の音が聞こえると、寒い中多くの方が手を合わせてくださり、随分励みになりました。寒行中の私の姿はとても尊く見えるらしく、普段手を合わせられることはあまりありませんが、寒行中は手を合わせてくださいます。。
 使っている編み笠と袈裟は身延修行中のもので、直しながら使っています。団扇太鼓は、初めの十年くらいは韮崎の大蓮寺から借りたものを使っていましたが、今の副住職達が寒行を始めるに当たり揃えました。着ている衣は大蓮寺の先代(父)が着ていたもので、丈は少し短いですがウールの分厚いもので、今では手に入りません。
 寒行中に犬の散歩をする人を見かけます。この人とどこが違うか考えたこともありました。お題目をお唱えしていると、ふと熱いものがこみ上げてきます。日蓮聖人のお言葉の中に
『鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。』という一説があります。これだけではわかりづらいので前後を足して、現代文に訳すと
  (日蓮宗電子聖典より)

諸法実相鈔(しょほうじっそうしょう)
文永10年(1273)5月17日、52歳、於佐渡一谷、和文
『現在の大難(だいなん)を思ひつづくるにもなみだ、未来の成仏を思ふて喜(よろこ)ぶにもなみだせきあへず。鳥と虫とはなけ(鳴)どもなみだをちず。日蓮はなかねどもなみだひまなし。
このなみだ世間(せけん)の事(こと)には非(あら)ず。ただひとへに法華経のゆへなり。もししからば甘露のなみだともいいつべし。涅槃経(ねはんきよう)には父母(ぶも)兄弟妻子眷属(けんぞく)にわかれ(別)て流すところの涙は、四大海の水よりもをゝしといへども、仏法のためには一滴をもこぼさずと見えたり。』
    現代語訳
「現在の大難を思いながらも涙、未来の成仏を思って喜ぶにも涙がとめどもない状態である。鳥と虫とは鳴いても涙を落とさないけれど、日蓮は泣かないが涙は乾くひまがないほどである。この涙は世間一般の私情で流しているのではなく、ただひとえに法華経のためであるから、甘露の涙ともいえるであろう。涅槃経には「父母・兄弟・妻子・眷属と別れを惜しんで流す涙は、四大海の水よりも多いといえるが、仏法のためには一滴の涙もこぼさない」とある。』

 お題目を唱える。それが受け入れられたことが、とてもうれしかったのでしょう。その為の熱い涙だと思います。
 多くの尊い支えがあったからこそ続けられたことと思います。そしてこの二十五年間は皆さんと一緒に成し遂げた寒行(寒中唱題修行)だと思います。何よりも寒行を「苦」と感じることがなかったことが有り難いことでした。多くの思い・祈り・願いを全ては叶えられませんが、少しでもかなえられよう祈願し、寒行二十五年成満といたします。   お知らせ

   年の瀬を迎えて
 2001年9月11日にアメリカ同時多発テロが発生し多くの犠牲者が生まれました。大きな憤り、深い悲しみも同時に多く生み出されました。そして2022年2月24日ロシアのウクライナ侵攻が始まり、今も続いています。
 なぜ、このようなことが現在でも起こるのか不思議でなりませんが、現実は日本の防衛費も上がり、東日本大震災の復興支援予算も防衛費に充てられようとしていることです。
 台湾出身の作詞家兼歌手の一青窈(ひとと よう)さんが作った「ハナミズキ」は、「アメリカ同時多発テロ」が二度と起こらないようにという願いで作られたものだそうです。
 歌詞の中に
『果てない夢が ちゃんと終わりますように』
とあるのは、夢(望み)が全てかなえられ、もう夢を見ることがない状態のことだそうです。そうすれば欲望は消え去り、世界が平和になり・・・・・
 このことを初めに聞いた時はなるほどと感心し、メモを取っていました。しかし”みのり”に載せようと改めて考えると、ある国の夢(望み)は他の国では災厄となることもあるのだと思いました。この「ハナミズキ」の終の歌詞には
『果てない波が ちゃんと止まりますように』とあります。
 世界中の国の次から次から湧き出す悪い欲望が、止まってほしいものです。
 コロナ禍は依然治まりそうもなく、厳しい状況が続いていますが、お寺の周りでは、新住民がたくさんでき若返っています。 令和五年こそは、「うどんをくうかい」を行い、より多くの人と「和」を持てればと願います。

    誰が戦争を起こしたのか
         (おこすのか)Ⅱ

 1962年「キューバ危機」が起こり、核戦争の一歩手前まで行きました。今から六十年前です。当時小学四年生くらいでしたが、近所の幼なじみと『「ピカドン(原爆の別名)」がきたら逃げられないね。ダイジョウブそこのほこらに入っていればいいよ』などと話しつつ、「なぜ共産主義国に生まれれば共産主義となり、アメリカに生まれれば自由主義になるの?これは遺伝?」とも思いました。
 冷戦が終わったかと思いきや、「イラク・イラン戦争」「湾岸戦争」と続き、「9.11」から「イラク戦争」「砂漠の春」で落ち着くかと思いきや、「テロ組織ISの台頭」、「北朝鮮問題」、「中国の台頭」などと多岐(たき)にわたり、正確に記すこともできない程です。
 かっての日本がそうであったように、自国の利益、威(い)信(しん)がそうさせているようです。それに宗教問題も見られます。今問題とされている国々のほとんどが、独裁政権に近く、不透明な選挙、もしくは選挙のない国々です。その国の全ての国民が、戦争を望んでいるのではなく、一部の権力者が、宗教問題などをあやつり、そうし向けているように思われます。
 パラリンピックの行われているこの時期に、ロシアによるウクライナの侵攻が始まっています。
  
【超簡単】ウクライナ情勢を小学生でもわかりやすく (ネットより転載)
①ソ連からロシアになって旧ソ連からいっぱい国が独立した。
②気がついたら旧ソ連から独立した国、全部西側の同盟(NATO)に入っていた。
③ウクライナまでNATOに入ったら、ロシア本国とNATOが隣接してしまう!それだけは絶対許さん。
④ちょっと前にクリミア併合問題っていうのがあって、ウクライナの領土だったはずのクリミア半島をロシアが難癖を付けて実効支配
⑤ロシアは「俺らが強気に出たところで、西側はなんもしてこんなw」と味をしめる。(ただ、さすがにNATOに加盟した後に手出ししたら親玉出てくるやろ・・・そうだ!入る前に・・・)
⑥NATOの守護神(のはずだった)大ドイツ帝国、ロシアの「おまえらウクライナ手助けしたら、天然ガス止めるからな。環境問題で首絞めて、俺らからの天然ガスなかったら、もう終わりやろ?w」にあっさり屈服。ドイツ「ヘルメットすら送りませんので、ガス止めないでください」状態。
⑦NATO軍はさすがに軍は出せないけど、武器弾薬ならとウクライナに供給。ただ、ドイツはヘルメット五千個のみ。これにはウクライナ国民も激怒
⑧ロシアは西側が手を出してこないと踏んで、ウクライナに侵攻。
【ロシアから見ると、NATOといういじめっ子集団にウクライナが加盟しようとしているように見える】
【ウクライナとしては、ロシアというおそろしい相手から身を守るために、NATOというグループに入りたい】
この食い違いから、今の状況になっています。
 この侵攻が、この後どうなるのか分かりませんが、いずれにしろ気まずいしこりが残ることでしょう。あるいは六十年前になんとなく覚悟をした核戦争になっているのかもしれません。
 人類は、生まれてからこの方争いを繰り返してきました。海に囲まれた日本はまだ恵まれていたのでしょうが、大陸では隣国との争いは絶えなかったようです。海に活路を懐(いだ)いた国(ベネチア)もあります。ヨーロッパの大聖堂(だいせいどう)を見ますと、とても荘厳(そうごん)で素晴らしいものです。ポンペイの古代遺跡を見ますと、その高台に水をくみ上げ利用した、水道の跡(あと)が見られます。
 この大聖堂や、水のくみ上げ、誰が行っていたのでしょうか。世界中を見ますと、ピラミッド、兵馬俑(へいばよう)、大仏など多くの世界遺産が、争いの結果もたらされたと思われます。もちろんロシアのエカテリーナ宮殿もです。
 
①諸悪莫作(しよあくまくさ) ― もろもろの悪を作すこと莫(な)く
②衆善奉行(しゆうぜんぶぎよう) ― もろもろの善を行い
③自浄其意(じじようごい) ― 自ら其(そ)の意(こころ)を浄くす
④是諸仏教(ぜしようぶつきよう) ― 是(これ)がもろもろの仏の教えなり

 何度も取り上げている七仏通解偈(しちぶつつうかいげ)です。②の「もろもろの善を行い」をよく法事の時に話します。「善(よ)いこと」とは誰にとって善いことなのか。この時に悟りを開かれたお釈迦さまのような大きな心の人が考えた「善いこと」は、誰にとっても善いことだけど、私たちが考えた「善いこと」は、自分の都合で決まる。例えば親にとって善いことが、子供にとってはどうか。
 日本も太平洋戦争などで、過ちを犯しました。おそらくどこの国でもそうでしょう。「三人寄れば文殊(もんじゆ)の知恵(ちえ)」と言われるように、多くの知恵を出し合って議論し、世界を導いていければ、お釈迦(しやか)さまの「善いこと」に近づけます。それにはまず、何主義でもかまいませんが、代表者を透明で公正な選挙で選べるように、反対の意見も尊ばれるように変えていくことからです。

 誰が戦争を起こしたのか
(学術会議任命拒否について思うこと)

 コロナ禍の中、安倍内閣の後を引き継ぎ、管内閣が発足しました。
 携帯電話料金の問題など、すぐに取りかかり、実行力のある好感を持てる内閣だと思いました。
 しかし、日本学術会議の六名の任命拒否で一変しました。人事の問題だからと、その理由を明かさないからです。学問の自由、思想の自由が脅かされると思うからです。
 香港の自由運動の活動家「周(しゆう)庭(てい)」氏は、日本国民へのメッセージで「今現在の普通の事は、とてもありがたい事なんです。守らなければすぐ壊れてしまいます。」とこのような事を発信していました。千(ち)曲(くま)川(がわ)氾(はん)濫(らん)災(さい)害(がい)などに遭った子供達が、「普段の生活が、とても幸福な事だと思いました。」
 このふたつの例はともに「普通」の事をいっています。選挙で選びたい人を自由に選び、賛同や批判をし、家にあっては暗ければ明かりをともし、蛇口をひねれば水が出る。これが今私たちの普通の生活です。これが脅かされようとしています。
 私は戦後生まれなので、戦争の事を知りませんし、不思議な事に学校であまり習わなかったようです。縄(じよう)文(もん)時(じ)代(だい)からせいぜい文(ぶん)明(めい)開(かい)化(か)ぐらいまでは記憶にありますが、近代史はあまり記憶に残っていません。
 沖縄を自動車が右側通行の最後の年に行きました。夜浜辺で談笑をしていたら、地元の老人が「もう少し静かにして下さい」と注意しに来ました。その時他の話もしたのですが、驚いた事に老人は「標準語」を話し、「内(ない)地(ち)」や記憶違いでなければ「ヤマトンチュウ」という言葉を使っていた事です。その時は不思議な気がしましたが、後で沖縄がどんな状態(江戸時代から戦中・戦後・現在まで)かを少し知るようになり、「標準語」をなぜ話せるのかが分かった時は、とてもいたたまれない気持ちでした。
 本は好きでよく読みましたが、読まない時代背景がありました。戦争(第二次世界大戦など)前と、戦時中です。
同じように映画もその時代の物は避けていた気がします。戦争は、いいたい事もいえず、誰かが監視の目を光らせている。「竹ヤリ訓練」で鉄砲を持っている相手と戦うことや、焼(しよう)夷(い)弾(だん)の雨が降る中バケツリレーで消化をすることなど、今考えれば当然おかしいと誰でもが気が付くはずです。そうさせない何かがその時はあったと思います。そして多くの立場が違う人(将校・大企業家・科学者・教師など)が、戦争は起こすべきではなかったといいます。それでは誰が戦争を起こしたのか。
 私たちは何かわからないことがあるとよく専門家(科学者など)の意見を参考にします。コロナの問題でも、マスクをつけ、三(さん)密(みつ)を避け、換気をする。尖(せん)閣(かく)諸(しよ)島(とう)の問題、ミサイル防衛構想でも、自衛隊や憲法問題、北方領土問題、環境問題・・・・。そして20年前にも”みのり”で取り上げました「どうしたらゆで卵の殻(から)をうまくむけるか」まで、ありとあらゆることを参考にします。しかしその人の基本的な考え方が、時の政府の意向に沿った物であるなら、考え物です。今の学術会議のあり方が問題ともなっていますが、それはまた別問題です。
 為(い)政(せい)者(しや)の思(おも)惑(わく)や、我々の妬(ねた)みや嫉(しつ)妬(と)無知などで汚(けが)されない、自由で豊かな感性のもと、育まれた私たちの思想を実現すること。監(かん)視(し)社(しや)会(かい)や差別・いじめのない住みよい世の中にすることが、今生きている私たちに託(たく)されている事だと思います。